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中山美穂さんの遺体、無言の帰宅 検視結果は「入浴中に起きた不慮の事故」妹忍ら関係者沈痛

6日に54歳で急死した歌手で女優の中山美穂さんの死因が、入浴中に起きた不慮の事故によるものだったことが8日、分かった。中山さんの公式サイトで公表され、検視の結果、事件性はないことも確認されたという。遺体はこの日午後、無言の帰宅をした。

華やかな美貌と歌声で一世を風靡(ふうび)したあの姿はもう帰ってこない。検視を終えた中山さんの遺体は、8日午後4時20分頃に都内の自宅に戻った。両サイドをグレーのシートに覆われながら車の後部座席から運び出され、帰宅を待っていた関係者らと無言の対面となった。

午後3時過ぎには、公式サイトで死因が発表された。「検死の結果、事件性はないことが確認されました。また、死因は入浴中に起きた不慮の事故によるものと判明いたしました」と報告。「私たち一同、この突然の出来事に深い悲しみを抱えながらも、皆さまから寄せられる温かなご支援とご配慮に心より感謝申し上げます」とつづられた。


捜査関係者によると、死亡推定時刻は6日午前3時から5時という。同2時30分ごろに中山さんから事務所スタッフにLINEで連絡があったが、スタッフは通知に気付かなかった。同7時ごろ、スタッフが中山さんに連絡を入れるもLINEが既読にならなかったという。この日、大阪市内でのコンサートを控えていたが、同9時ごろに待ち合わせ場所に姿を見せなかった。正午ごろ、自宅を訪れた事務所関係者と知人が中山さんを発見し、110番通報。自宅の浴室で死亡が確認されたという。


8日は、前日7日に続いて妹で女優の中山忍(51)や事務所関係者らが自宅を訪れた。午後1時40分過ぎに外出し「すみません」と報道陣に一言告げ、一礼して車に乗り込んだ。午後2時過ぎには、事務所関係者が祭壇用の花などを搬入。葬儀屋やレコード会社関係者が訪問する様子も見られた。忍は午後3時前に自宅に戻り、沈痛な表情を浮かべながら報道陣に一礼して自宅へ戻っていった。

公式サイトでは、後日お別れの場を設けることが発表された。実施は来年になるとみられる。近日中には通夜、葬儀を執り行う見込み。この日も自宅前には中山さんのファンとみられる人々が多数訪れていた。

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