日英伊での次期戦闘機開発へ国際機関設立の条約発効 2035年までの配備開始目指す

日本、英国、イタリアによる次期戦闘機の共同開発を巡り、管理を担う国際機関「GIGO(ジャイゴ)」設立のための条約が10日発効した。日本外務省が発表した。外務省によると、国際機関は近く英国に設立する。 日英伊は、2022年12月に次期戦闘機の共同開発で合意。開発計画は「グローバル戦闘航空プログラム(GCAP)」と呼ばれ、35年までの配備開始を目指す。GIGOの初代トップには岡真臣元防衛審議官が就く。

「もう台湾が大好きで大好きで」自民・高市氏 民進党・秘書長も「日本は友達超えて家族」

自民党の高市早苗前経済安全保障担当相は10日、訪日中の台湾与党・民主進歩党の林右昌秘書長(幹事長に相当)らと国会内で会談した。林氏が日本について「友達を超えて家族のよう」と語り、高市氏は「もう台湾が大好きで大好きで…」と応じた。高市氏は代表的な「親台」の政治家として、林氏が会談を要請したという。 「民進党で政権維持を」 「安倍晋三元首相の路線を継承し、経済安全保障や台湾海峡問題に精通している政治家だ」 林氏は冒頭、高市氏をこう評した。さらに11月の野球の国際大会「プレミア12」決勝で台湾代表が日本代表に勝利した後、両チームのファンが祝福し合った事例を挙げて、より緊密な政党間交流を呼びかけた。 高市氏も、中国の習近平国家主席が台湾統一の野心を隠さないことに強い懸念を示し、「(『一つの中国』原則を認めない)民進党で政権を維持してほしい」とエールを送った。 また、石破茂首相に敗れた9月の総裁選を「負けた大きな理由は、私が総裁になったら北京政府(中国)との関係が悪くなるのではないかと心配した人が多かった」と振り返り、自身は台湾との連携を重視する政治家だと強調した。 林氏は7日に来日し、自民党の森山裕幹事長をはじめ、立憲民主党、日本維新の会の幹部らと会談し、意見交換を重ねている。 高市氏に対しては「今まで台湾の立場に寄り添った発言をしてくれた。そのお礼に来た」(林氏)という。 「萩生田さんに似ている」 日台友好の思いを共有する自民党の高市早苗前経済安全保障担当相(左から4人目)と台湾民進党の林右昌秘書長(左から3人目)ら 林氏は中国の拡張政策に懸念を示しつつ、高市氏に中長期的な連携を求めた。この会談の最中、高市氏はふと林氏に似ている日本の政治家がいると切り出した。 「大変失礼なのですが、(自民党元政調会長の)萩生田光一さんを少しやせさせたような…目が似ている」 高市氏は「林氏の方が断然ハンサムです」とも述べたが、日台双方から納得したような声が上がった。林氏と来日した民進党の山田摩衣氏は日台ハーフで新北市の「板橋区」選出の市議だといい、高市氏らが東京都の板橋区と混同する場面もあった。 高市氏は閣僚を務めていた今年前半に訪台する計画を立てていたが、党内調整が進まず断念したという。この日は今国会閉会後の訪台に強い意欲を示した。頼清徳総統との会談に加え、台湾・高尾市に立つ安倍氏の銅像を視察したいとも語った。(奥原慎平)

《私には帰る場所がない》ライブ前の入浴中に突然…中山美穂さん(享年54)が母子家庭で過ごした知られざる幼少期「台所の砂糖を食べて空腹をしのいだ」

あまりに突然の出来事だった──12月6日、渋谷区にある自宅の浴槽内で亡くなっていることがわかった歌手で俳優の中山美穂さん(享年54)。 所属事務所は12月8日、中山さんの公式サイトで「検死の結果、事件性はないことが確認されました」と発表し、死因は「入浴中の不慮の事故」と伝えた。 1980年代半ばから90年代にかけ“ミポリン”の愛称でトップアイドル、そして女優として活躍した中山さんだが、生前、幼少期のエピソードについてはあまり語らなかったとされている。【前後編の前編】 そんな彼女も、2012年の自著『なぜなら やさしいまちが あったから』(集英社文庫)で自身の幼少期や家族について赤裸々に綴っていた。その中には、当時の暮らしぶりを表したような一節がある。 〈はじめましてとさようならはいつもセットだった──〉 “別れ”の連続だった幼少期 さかのぼること1970年3月、中山さんは長野県の自然豊かな町で生まれた。ある芸能記者は言う。 「ご両親は地元でスナックを経営されていたようです。中山さんが3歳の頃におふたりは離婚しており、彼女には実父の記憶がほとんどないといいます。その後は実母と妹で女優の中山忍さん(51)と東京へ引っ越しましたが、母子家庭のためか生活が苦しく、中山さんは台所の砂糖を食べて空腹をしのいだこともあったそう。 上京してほどなくお母さんが昼夜問わず働き詰めになり、ほとんどの時間を親戚の自宅で過ごすことになりました。 芸能界については幼稚園に入るころからすでに憧れがあったようで、親戚の家では段ボールの上に乗って『キャンディーズ』や『ピンク・レディー』の曲を歌っていたこともあったとか」 のちに中山さんはこの親戚を、トーク番組『A-Studio』(TBS系)で“育ての親”だと述べている。なかでも叔父にあたる男性については「本当の父親のように家族の一員として接してくれました」と語っており、忙しい母親に代わって愛情を注いでくれる大切な存在だったようだ。 そんな“第2の父”ともいえる男性だが、中山さんの世話をしている間に若くして亡くなってしまう。幼少期の短い間で二度も“父親”を失う体験をした中山美穂さんは、前出の自著でもその存在と自身の恋愛観を重ねてこう振り返っていた。 〈思春期からの数々の恋愛は、父親を求めるような戯れでもあった。未熟と成熟を抱えながらその中心でバランスを保つことはなく、常に激しく人と向き合っていたと思う。ほとんどの大人と異性は私に、自分で学ぶことの大切さを教えてくれた〉 この失望から束の間、中山さんにとって大きな出来事が起きる。 「中山さんが10歳くらいの頃、お母さんが秋田県出身の男性と再婚し、一緒に暮らすようになった。1982年にはその義父との間に弟も生まれており、その頃の中山さんは子どもながらに『寂しいけど、長女だからしっかりしないと』と感じていたようです。 また両親の仕事の関係で、都内で何度も引っ越しを繰り返していたことから友人と呼べる人がほとんどいなかったともいいます。連載をしていた女性誌のエッセイでは、当時の生活を『帰る場所がなかった』というふうに語ったこともありました」