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救急隊と事務所社長が明かした中山美穂の発見時の様子…「既に硬直が始まっていた」とされる最期の姿が…

【前後編の前編/後編からの続き】中山美穂さんのトシちゃんとの“ハワイ逃避行” 当時のマネージャーは「上手にやってくれればよかった」 今だから話せる“秘話”とは

あまりにも突然の報せだった。女優・中山美穂さんの死。14歳でドラマに初出演、スターダムへと駆け上がった。「月9」でヒロイン役を演じること歴代最多。時代を彩ったスターの来し方を振り返る。

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誰もいない担架を救急車に載せていて…」中山美穂さんの急死…居住ビル関係者が明かした「緊迫の光景」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

救急車がサイレンを街中に響かせ、東京・渋谷区内の7階建てビルの前に到着した。時間は12月6日正午ごろ。5階までは芸能事務所や撮影スタジオが入居しているが、救急隊員は6階へ。近隣住民は商業ビル然とした外観からそうとは知る由もなかったが、部屋の主は中山美穂さんだった。

中山さんの所属事務所で、バーニングプロダクション傘下の「ビッグアップル」社長、鈴木伸佳氏が当日の様子を語る。

「美穂は夕方から大阪市内でのコンサートを予定していました。担当の女性マネージャーと品川駅で待ち合わせており、運転手役の別の社員が朝9時に自宅まで迎えに行っていたのです。ところが、社員から私に電話があって“1時間待っても出てきません。電話も鳴りっぱなしです”と」

時計の針は午前10時を少し回っていた。

「心配して、自分も自宅に向かいました。ただ、あそこは特殊でね。エレベーター専用の鍵がないと上に行けない仕組みです。それで、美穂が合鍵を預けていた知人女性に鍵を借りねばなりませんでした。美穂は猫を2匹飼っていて、遠征の時などに代わりに餌をあげてもらうため、鍵を預けていたんです」(同)

部屋に足を踏み入れると……
担当者が鍵を携えて自宅前に戻ったのが11時半ごろ。鈴木氏は担当者と二人でワンルーム・72平方メートルの部屋に足を踏み入れた。

「ひと通り部屋を見回しても美穂の姿が見当たらず、 もしやと思って、浴室の扉も開けてみたんです」

そこに彼女の姿があった。

全国紙の社会部デスクが言う。

「救急隊員が現場に到着した時点で、すでに死後硬直が始まっていました。隊員は蘇生不可能な“社会死”と判断。病院への搬送は行っていません。警視庁は当初、自殺および事件の線も含めて捜査しましたが、ご遺体には目立った外傷もなかった。解剖の結果、死因は入浴中に起きた不慮の事故によるものであると結論付けられています」

複雑な生い立ち
主役を演じた恋愛映画「Love Letter」(1995年、岩井俊二監督)がアジア圏で人気を博した彼女の訃報は、中国や韓国でも大きく取り上げられた。

生まれは70年3月1日、長野県。生い立ちは複雑で、幼少期に両親が離婚。母親に伴われて3歳のとき、まだ生後間もない妹の忍(51)とともに上京した。一時期までは都内の伯母夫妻の元に身を寄せる生活を送ったという。

中山さん自身、2009年に刊行したエッセイで、こんなふうにつづっている。

〈母子手帳には母の名前しかなかった。戸籍などを見ても現実と同じように実父の名前はない〉

〈母は実父のことに関して、私が幼いころに一度だけ、亡くなってしまった、と言ったきりなにも教えてはくれませんでした。(中略)年月がたち、パリに来てくれた母が、これまでいっさい話してくれることのなかった私の父親のことを初めて少しだけ語ってくれました〉

小4の時分に母親が再婚し、小中学校時代に数度、転校も経験している。

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「初回放送前日、“見てくれますかね”と心配していた」
芸能界入りのきっかけは、中1の春、原宿でスカウトされてモデルとなったこと。

転機は中3の3学期に訪れた。85年1月8日、TBS系ドラマ「毎度おさわがせします」のツッパリ少女・のどか役で女優デビューを果たしたのだ。

中山さんの初代マネージャーでビッグアップル創業メンバーの一人、岡嶋康博氏が述懐する。

「作品は思春期の性をテーマにしたホームコメディードラマでした。初回放送の前日、彼女が“見てくれますかね”と心配していたのを覚えています。初回放送後、二人で街を歩いていると“あれ、のどかじゃないの”という女子中高生の声が聞こえてきて、私たちは驚きました。そんなに反響があるなんて、思ってもいなかったのです」

「澄んだ声をしていて、歌唱力にも恵まれていた」
中山さんの古くからの知人が明かす。

「彼女は『毎度〜』の頃、共演者だったジャニーズ事務所のあるタレントにぞっこんでね。夜中ずっと電話するものだから、電話代は一晩でかなりかさんだようです」

ドラマ初出演と同じ85年、歌手デビューも果たした。

キングレコードOBの福住朗氏の話。その才を見いだした人である。

「事務所からの推薦を受け、面談を経て弊社スタジオで歌のテストを受けてもらいました。中森明菜の『スローモーション』が好きだと言うので歌ってもらったのですが、当時から表情がどこか大人びていた。また、声も良かったですね。澄んだ声をしていて、歌唱力にも恵まれていました」

昭和歌謡に強かったキングレコードの社内では、彼女を売り出すことに反対の声も上がったという。が、「毎度〜」で人気に火がついて、歌の面でもチャンスを得た。結果、

「レギュラー出演2作目の『夏・体験物語』の主題歌を任されたのです」(同)

作詞・松本隆、作曲・筒美京平のゴールデンコンビによる「C」である。

「朝からロケ、ラジオ収録にインタビューと生の歌番組」
デビュー曲ながら大ヒットし、その年の日本レコード大賞最優秀新人賞を受賞。翌年には「ツイてるねノッてるね」でレコ大金賞も獲得。

曲名を地で行くように仕事も上り調子に向かう。

「あの頃は365日、ほぼ休みなしでした。今では考えられないような働き方です。早朝はロケ。その後はラジオ収録で、途中に『明星』など雑誌のインタビューをいくつか受ける。夜になると『ザ・ベストテン』『ザ・トップテン』『夜のヒットスタジオ』など、生の歌番組に出るんです」(前出・鈴木氏)

「200枚のプロットを1日で読んでしまった」
ドラマでも「君の瞳に恋してる!」を皮切りに、フジの定番「月9」のヒロイン役を7作で演じ、歴代最多を記録した。

「君の瞳に〜」のプロデューサーで現在、関西テレビ社長の大多亮氏が、

「アイドル人気の絶頂期でしたが、芝居と歌手の両方でデビューして、あそこまで昇り詰めた人はそういないのでは。押しも押されもせぬ時代のトップスターだったので、常に緊張感をもって接していました」

と回想すれば、「眠れる森」を企画した亀山千広BSフジ社長も仕事ぶりを称賛する。

「『眠れる森』では脚本家の野沢尚さん(故人)が、200枚近くもあるプロットを書いてくださった。そのプロットを彼女に渡した翌日、1日で読んでしまったと聞いて驚いたのをよく覚えています。プロの女優さんだと感じました」

後編【中山美穂さんのトシちゃんとの“ハワイ逃避行” 当時のマネージャーは「上手にやってくれればよかった」 今だから話せる“秘話”とは】では、当時のマネージャーが「今だから話せる」秘話を明かしている。

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「もはや記録更新は不可能」中山美穂さんが〝歌手と俳優の二刀流〟で残した大きな記録

12月6日に都内の自宅で入浴中の不慮の事故により亡くなった中山美穂さん(享年54)の葬儀・告別式が12日に都内の斎場で営まれた。その終了後、喪主を務めた実妹で女優の中山忍(51)が美穂さんの公式サイトでコメントを発表した。 忍は《私にとって姉は『大好きなお姉ちゃん』であるとともに『みなさんの中山美穂』であり、『永遠のシャイニングスター』です》と、姉のヒット曲のタイトルを引用し、尊敬する姉への思いをつづっていた。また、元夫で作家の辻仁成(65)との間にもうけた一人息子(20)もフランスから駆けつけ、美穂さんと再会できたことを報告。お別れ会は後日予定しているという。 「葬儀・告別式の模様を報じた一部スポーツ紙によると、家族と事務所関係者ら約30人が参列。祭壇には美穂さんが好きだった深紅のダリアなど色とりどりの花が敷き詰められ、デビュー曲『「C」』やシングル39作全てのCDや思い出の写真が飾られていました。 祭壇の中央には、最後のステージとなった今月1日のビルボード横浜でお気に入りのドレスをまとって歌う美穂さんの遺影が。それまでは気丈に振る舞っていた忍さんでしたが、最後の喪主のあいさつでは、こらえていた涙があふれ出て言葉に詰まってしまいました。その様子に参列者はみんなもらい泣きしていたそうです」(芸能記者) 美穂さんは1985年1月にドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)で女優デビュー、同年6月には同局系の主演ドラマ『夏・体験物語』の主題歌『「C」』で歌手デビューを果たした。その後も女優・歌手の〝二刀流〟で大活躍していたが、’90年代に入ってからは大きな記録を打ち立てる。 「1994年1月スタートの主演ドラマ『もしも願いが叶うなら』(TBS系)の主題歌『ただ泣きたくなるの』が、単独名義で初の100万枚超えのミリオンセラーを記録しました。その前の1992年には人気バンド『WANDS』とコラボした『世界中の誰よりきっと』がミリオンセラーを達成しています。 ’80年代デビューの女性歌手でミリオンヒット2曲は初の快挙。この大記録を達成したのは、美穂さんと、1986年にデビューして、美穂さんと同じように俳優業もこなしながら、『PIECE OF MY WISH』(1991年)と『PRIDE』(1996年)がミリオンヒットとなった今井美樹さん(61)しかいません」(レコード会社関係者) ◆今後も破られることのないであろう記録 TBS系のドラマでデビューした美穂さんだが、女優として売れっ子になると、同局とフジテレビが美穂さんのドラマ主演の座を奪い合うような状態になった。 フジでは1989年1月期の『君の瞳に恋してる!』以後、『すてきな片想い』(1992年)、『For You』(1995年)など、続々と看板ドラマ枠の月9枠の主演に起用されている。さらに主演ドラマの主題歌も歌っており、ここでも今後打ち破ることが不可能だと思われる大記録を打ち立てていた。 「今年の10月期までの月9の主演回数は、11回の木村拓哉さん(52)に次ぐ2位で7回。女性の俳優で主演回数トップ10入りしているのは美穂さんだけです。さらに、女性歌手での月9主題歌起用曲は4曲で家入レオさん(30)と並びトップタイです。 家入さんは、今後も所属事務所の俳優陣が月9主演に起用された際に主題歌を担当することもありそうなので記録更新の可能性があります。しかし、最近の月9はどんどん主演を変えていて、なかなか2作目の主演は回って来ません。主演回数の記録更新は難しいでしょう。 今後、美穂さんのように歌手と俳優を高いレベルで両立させる人はもう出てこないのではないでしょうか。グループに所属している人は別ですが、最近では各局ともに、なかなか主演の俳優が主題歌を歌うことがなくなってきています」(テレビ局関係者) 近年の美穂さんは、映像作品では脇役に回ることが多く、役の幅を広げていた。 美穂さんの公式サイトは16日、生前に撮影していたドラマが来年1月に放送されることになったと発表した。放送されるのいずれも’25年1月にスタートする、香取慎吾(47)主演の『日本一の最低男※私たちの家族はニセモノだった』(フジテレビ系)と、TOKIO・松岡昌宏(47)主演の人気ドラマシリーズ最新作『家政夫のミタゾノ』(テレビ朝日系)。 最低男』には保育園の園長役で出演し、9日放送の第1話と23日放送の第3話に出演。『ミタゾノ』には同14日放送の第1話のメインゲストとして出演しているという。 本来ならば、これからも数多の作品に出演していたことだろう。その早世が惜しまれる。

中山美穂が突然死した切ない真相…晩年のヤバすぎる異変や恐怖の遺言に言葉を失う…『世界中の誰よりきっと』でも有名な女性歌手の息子の現在…孤独の晩年に涙が零れ落ちた…

中山美穂さんが54歳で自宅で亡くなっているのが発見されました。12月6日、東京・渋谷区の自宅での突然の死が確認され、彼女のファンや関係者に衝撃を与えています。事務所からは、予定されていたクリスマスコンサートの中止が発表され、悲しみの声が広がっています。関係者は、テレビ報道を通じてこの不幸なニュースを知ったと語っており、詳細はまだ明らかになっていません。   中山美穂さんは長野県で生まれ、母子家庭で育ちました。幼少期には誘拐事件に巻き込まれるなど、辛い経験を多く持つ彼女でした。それでも、1982年に芸能界入りし、モデルや歌手、女優として多くのファンを魅了しました。特に「世界中の誰よりきっと」という楽曲は、今もなお多くの人々に愛されています。   90年代には日本のトップアイドルとして名を馳せ、映画やドラマでも活躍。私生活では、2002年にミュージシャンの辻一成さんと結婚し、長男をもうけました。しかし、フランスに移住後、彼女の結婚生活は数年で終わりを迎え、息子とは別々の生活を余儀なくされました。彼女の私生活に関する報道は、特に不倫に関するものが多く、世間の批判を浴びることもありました。   息子のジト君は現在、フランスで大学生活を送り、彼の成長を見守る辻一成さんとの関係も注目されています。中山美穂さんの死は、彼女の複雑な人生を象徴する悲劇的な結末となりました。彼女の音楽と演技は、多くの人々の心に残り続けることでしょう。   中山美穂さんの突然の死に対する哀悼の意が広がる中、彼女の人生に思いを馳せる人々が多くいます。彼女の業績や影響を受けたファンにとって、忘れがたい存在であり続けることでしょう。

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マツコ、浴室での“九死に一生”体験を告白…中山美穂さんと同じマンション、同じ部屋に住んだ不思議な“縁”も発覚

タレントのマツコ・デラックスが、12月16日放送の『月曜から夜ふかし』(日本テレビ系)で、自宅の風呂場での転倒事故を明かし、波紋を呼んでいる この日の放送では、石を集める愛好家たちの特集VTRが話題に。 同じくMCを務める「SUPER EIGHT」の村上信五から、山へ行って石集めをしてみてはと提案されると、マツコは「滑って転んで、頭でも打ったらどうすんのよ」とコメント。 続けて「こないだ、ちょっとお風呂場でさ……」と、派手に転倒したことを明かしたのだった。マツコは「たまたま頭とか、ぶつからない位置に滑った」というものの、その瞬間に「これ、簡単に死ねるな」とも感じたという。 たまたま運がよかった“九死に一生”な体験に対して、Xでは《バスルームは要注意な場所》《マツコさん 自宅で転倒したのか……》と心配の声が聞かれたなかで、ほかにも《浴室で転倒したマツコさん。風呂場での事故は今ちょっと心配になる》といった声も聞かれた。 これは、12月6日に自宅の浴室での不慮の事故で亡くなった、歌手で女優の中山美穂さんの事故を重ねたものと思われる。 マツコは1972年10月生まれの52歳。1970年3月生まれで、54歳で亡くなった中山さんとは3学年違いであり、ほぼ同世代だ。50代、浴室での事故という部分で「両者を重ねる声があったのだろう」と指摘するのは、スポーツ紙記者だ。 「番組では、とくに中山さんへの言及はなかったため、収録は事故前におこなわれたもののようです。中山さんは亡くなる3カ月前の2024年9月に『アウト×デラックス』(フジテレビ系)のスペシャル回で、マツコさんと共演していました。 そのなかで、じつは中山さんがかつて住んでいた同じマンションの同じ部屋に、その後、マツコさんが入居していたことが明らかにされたんです。そういった思わぬ“縁”もふたりにはありました」 中山さんの死因については、8日に大まかに判明していた。 「遺書やメモなどはなく、薬を飲んだ形跡もなく、部屋の鍵も施錠されていたことから、事件性はなく事故と警察は判断しました。また、マツコさんのように転倒で頭などをぶつけて……というわけではなく、溺死、もしくはヒートショックの可能性が指摘されています」(同前) いずれにせよ、浴室では細心の注意を払う必要がありそうだ。

中山美穂を守るため、「女性セブン」がすべてを前夫・辻仁成のせいにするワケ

もちろん“恋愛体質”といわれた中山の過去の恋愛スキャンダルについても、その影響力を遺憾なく発揮、時には相手男性のネガティブ情報を流すなど、マスコミにさまざまな圧力をかけてきたといわれる。 そして「セブン」は、中でもバーニング系にもっとも近い媒体のひとつといわれてきた。そんな「セブン」が今回、中山に関してどんな報道をしたのか――。興味津々で読んでみるとありました、ありました、巧妙な印象操作が! 関連記事を含め5頁もの特集を組んだ「セブン」だが、中山の死因や、これまでの活躍や恋愛遍歴、そして最近の様子などを丹念に追っている。もちろん追悼ということもあり、“美談仕立て”は当然だが、問題は前夫・辻仁成との離婚の下りだ。 「(原因のひとつが)辻さんの風貌の変化でした。短髪だったヘアスタイルをストレートのロングヘアにして、奇抜なファッションに身を包む彼の姿勢を中山さんは快く思っていなかった」(芸能関係者のコメント) 確かに中山と辻の離婚騒動当時(2014年)、マスコミは離婚原因について、辻の“容姿の中性化”だとさかんに報じた。しかし現在では、これらは事務所サイドのリークであり、実際は中山が音楽家・渋谷慶一郎と不倫関係に陥り、しかも夫であった辻は、それを13年末には把握していたことも明らかになっている。でも、いまだに「セブン」はそれを認めないばかりか、こんな一文も。 「辻氏との離婚後、中山さんはパリで親しくなった音楽家の渋谷慶一郎氏と同棲したが、けんかが絶えずに破局している」 “離婚後”ではないはずだけど――。さらに中山は離婚から死亡するまでの10年間、息子に一度も会っていなかったことが報じられているが、「セブン」はそれを“辻のせい”にしながら中山の心情を代弁もしている。 「息子さんには『いつも愛していることは伝えているし、できるだけそばにいることも伝えています』と語っていました。しかし、辻さんの許可がない限り、お子さんと会うことはできなかったそうで、寂しさを周囲に打ち明けたこともあります。この頃から酒量も増えていったように思います」(芸能関係者のコメント) すべては辻のせい。死後も中山のイメージを守ろうとする「セブン」、頑張った(笑)。 古閑美保の再婚報道がほっこりするワケ 久々にその名前を聞いた。プロゴルファーの古閑美保42歳。かつてはその“肉食系”ぶりが女性週刊誌をにぎわせた古閑だが、久々のスキャンダル(!?)も期待に違わず肉食系だった。再婚して念願の子どもを授かったというのだ。しかも再婚相手は元夫の親友――。 記事には、これまでの古閑の恋愛遍歴が綴られている。まずは08年に報じられた当時ロッテの西岡剛選手、そして11年には当時日ハムのダルビッシュ有だ。なつかしい。ダルビッシュとの熱愛は当時、大きな話題だった。 当時ダルビッシュは妻の紗栄子との離婚協議中。だが古閑はダルビッシュにぞっこんで、宮崎県での自主トレに同行、毎晩同じ部屋に泊まっているとフライデーされたりもした。だが、その後ダルビッシュは、現在の妻である元レスリング日本代表の山本聖子と結婚してしまった。芸能マスコミは大騒ぎするよね。   そんなこんなで古閑は一躍、肉食系女性として人々に認知され、その後は7歳年下のプロゴルファー小平智と17年に結婚するも22年に離婚している。そして同年の11月、夫だった小平と同じ歳の親友でプロゴルファーの野田早人と熱愛報道(時期的に不倫疑惑も指摘される)が出るも2人はその関係を否定、さらに昨年5月の「週刊文春」(文藝春秋)の直撃で、交際や再婚についてそろって否定していた。 でも、やっぱり再婚していたんだ。おめでたい話題だし、久々に変わらぬ肉食系を貫いている古閑の幸せな近況に触れ、なんだかほっこりした。 意味不明すぎる「週刊女性」のアンケート企画 どーしても突っ込みたい。今や「週刊女性」のお家芸となっている“アンケート企画”。今号のテーマは「クリスマスを一緒に過ごしたい&過ごしたくない男性有名人ランキング」だって。アンケート対象は40歳以上の女性1,000人。 そもそも、おこがましい企画だよね。しかも「クリスマスを一緒に過ごしたい男性有名人」を見ると竹野内豊、大谷翔平、斎藤工、福山雅治、高橋一生だって。あつかましすぎる。 そして「クリスマスを一緒に過ごしたくない」は、明石家さんま、松本人志、石破茂、堀江貴文、斎藤元彦だって。なんじゃそれ。なんの意味があるのか。これまでも意味不明なものが数多く見受けられる「週女」アンケート企画だが、中でもダントツかも。

南野陽子 中山美穂さんを追悼「同期であることが誇らしく感じる人でした」「うそって…悔やしいなと」

歌手の南野陽子(57)が20日放送のニッポン放送の特別番組「南野陽子 今日はナンノ日っ!2024」(後8・00)に出演。6日に入浴中の不慮の事故により54歳の若さで急逝した歌手で女優の中山美穂さんを追悼した。 中山さん、工藤静香、浅香唯とともに「アイドル四天王」と称され、一時代を築いた南野。来年デビュー40周年を迎える中で、中山さんの急逝に言及した。  「中山美穂ちゃんとか、1985年の6月にデビューと、デビューもおんなじでした。先にドラマで始まって、そのあと歌の流れも同じような感じでした」と振り返り、「10年と会う機会がない感じだったんですけど。同期を聞かれると、中山美穂ちゃんとかって真っ先に名前を挙げさせてもらっていました。同期であることが誇らしく感じる人でした」と語った。  「あまり実感がないというか、あまりにも早くて“ちょっとそれはないでしょ、えっ、何、うそって。ちょっとそれはないでしょ”って、なんかそういうふうな。“まだまだやることあるでしょ”みたいな、そういう気持ちになってしまいました」と驚いたことを回顧。「クリスマスライブとか、来年の40周年とか、絶対に楽しみにしてたはずなんですよ。だから悔やしいなと思って。中山美穂ちゃん本人が一番びっくりしてるし、悔しがってるんじゃないかなと思います。だけど、明日のライブでみんなに会えるとか、打ち上げどうしようかとか、なんかちょっとハッピーなあったかい思いでいたのかな、その日は、と思うと…。ねぇ、うん。うん」と言葉に詰まった。 「悲しいニュースを見ても、そこに出てくる映像とか歌ってる姿とか写真とか、やっぱり奇麗だな、かわいいなとか、キラキラしてるなとか、そういうふうにしか見られなくて、輝いてんな~って」と正直な思いを打ち明け、改めて実感がないことを強調。「(本田)美奈子もそうですけど、今もCDを聞くし、聞いてうまいな~とか思って。忙しくて会えてないだけで、いない感じはしてないです。だから凄く不思議な感じのままなんですけど。一緒に過ごしてきた時代を知ってる者として、美奈子も美穂ちゃんもただただ誇らしく思うんですよね。私はまだもう少し頑張らないといけないみたいな感じがあるので」と2005年に白血病のため38歳で亡くなった本田美奈子さんの名前を挙げながら語り、「だから、悔しいし、こういう話は嫌だなと思うんですけどね」と続けた。 「ファンの方は凄い本当つらい思いをされてたりすると思うんですけど、本当に彼女はとってもすてきな作品を歌にしてもお芝居にしてもいっぱい残してますんで、それを見ながらいることが彼女も一番喜ぶことじゃないのかなと思うので、いっぱい見て、やっぱり彼女はすてきだな、いいなと思ってほしいなと思います」とファンに向けてもメッセージを送り、「私も来年40周年、頑張っていかなきゃって思います」と締めくくった。

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