中山美穂さんの葬儀終え 妹・忍さんコメント「祭壇は華やかで最後のステージのよう」
俳優 中山忍が12日、6日に54歳で急死した姉で俳優・歌手の中山美穂さんの葬儀を終えたことを受け、コメントを発表した。 忍は「姉を愛してくださったすべての皆様へ」とし、「おかげさまをもちまして、姉『中山美穂』の葬儀が滞りなく執り行われたことをご報告申し上げます。親族の希望で家族葬とさせていただきました」と報告。「最近での、一番のお気に入りだったドレスを纏い、楽しそうに歌う姉の写真を中央に、好きだった色取り豊かな花々で飾っていただいた祭壇は、華やかでキラキラしていて、最後のステージのようでした」とつづった。 葬儀の様子について忍は「最近での、一番のお気に入りだったドレスを纏い、楽しそうに歌う姉の写真を中央に、好きだった色取り豊かな花々で飾っていただいた祭壇は、華やかでキラキラしていて、最後のステージのようでした」と明かした。 また葬儀までの数日間を「お別れまでのほんの数日間ではありましたが、子供の頃に戻って枕を並べ、姉の横顔を見つめながら眠りについたこの穏やかなひとときは、私の宝物となりました」と記した。 同事務所は「本日、青空が広がる清々しい天候の中、中山美穂の火葬を無事に終えました。葬儀は家族と事務所関係者のみで執り行われました」と報告。「祭壇には、優しいピンクや清らかな白、明るい黄色の花々に加え、深紅のダリアがひときわ印象的に飾られ、美穂さんの情熱的で華やかな一面を思い起こさせるようでした」としたためた。 「会場全体が色鮮やかな花々に包まれ、生前の作品や思い出の写真とともに、彼女の功績を皆で称える時間となりました。穏やかな雰囲気の中、故人を見送ることができましたのも、報道関係者の皆さまやファンの皆さまがご配慮くださり、静かに見守っていただいたおかげです。心より感謝申し上げます」と記した。
中山美穂さん葬儀 妹・忍はこらえきれず涙「忘れないでいてあげて」 参列者ももらい泣き
6日に東京都渋谷区の自宅浴室で死亡した状態で発見された女優で歌手の中山美穂さん(享年54)の葬儀・告別式が12日、都内の斎場で営まれた。妹で女優の中山忍(51)が喪主を務め、家族と事務所関係者ら約30人が参列した。 祭壇には美穂さんが好きだった深紅のダリアなど、色とりどりの花が敷き詰められ、デビュー曲『「C」』やシングル39作全てのCDや思い出の写真が飾られた。中央には、最後のステージとなった今月1日のビルボード横浜で歌う美穂さんの遺影。お気に入りのドレスをまとった一枚だ。 関係者は「忍さんが最後に喪主のあいさつをしました。それまでは気丈に振る舞っていましたが、こらえていた涙があふれ出て言葉に詰まっていました。その様子に参列者はみんなもらい泣きしていました」と明かした。 最愛の姉を見送った忍は同日夕、美穂さんの公式サイトで「姉を愛してくださったすべての皆様へ」と題したコメントを発表。姉との思い出などを振り返り「その声を、その歌声を、その指先を、忘れないでいてあげてください」と呼びかけた。 所属事務所によると、来年にお別れの会が開かれる予定。多くのファンが集まりそうだ。 【中山忍の発表された談話】 「姉を愛してくださったすべての皆様へ」 おかげさまをもちまして、姉「中山美穂」の葬儀が滞りなく執り行われたことをご報告申し上げます。 親族の希望で家族葬とさせていただきました。 最近での、一番のお気に入りだったドレスを纏(まと)い、楽しそうに歌う姉の写真を中央に、好きだった色取り豊かな花々で飾っていただいた祭壇は、華やかでキラキラしていて、最後のステージのようでした。 お別れまでのほんの数日間ではありましたが、子供の頃に戻って枕を並べ、姉の横顔を見つめながら眠りについたこの穏やかなひとときは、私の宝物となりました。 そして、何より姉が幸せを願ってやまない愛する息子と、再会の時間をもたせてあげることができました。手を繋(つな)ぎ、そっと寄り添う2人の姿は、とてもとても幸せなものでした。 静かに見守ってくださったマスコミ関係者の皆さま、ご配慮いただき本当にありがとうございました。 姉は一生懸命な人でした。 ちょっと頑固で、バカみたいに正直で、本当は傷付きやすい心を見せず、何があっても自分の責任だと、真っ直(す)ぐ前を向く勇気がある人でした。 自慢の姉でした。どうか皆さま、姉のとびきりの笑顔を空を見上げたその声を、その歌声を、その指先を、忘れないでいてあげてください。 私にとって姉は「大好きなお姉ちゃん」であるとともに「みなさんの中山美穂」であり、「永遠のシャイニングスター」です。 これからは皆さまが姉を思い出してくださる時、そのきっかけのひとつとなれますよう、その思い出があたたかなものでありますように、私も俳優として、より精進して参ります。見守ってくださいましたら幸いです。 良いときも悪いときも別れ際に姉はいつも「じゃあ、忍、あとはよろしくね」と軽やかに笑って去っていきました。最後の最後まで、、、。とても「姉らしい」と思われてなりません。 生前の姉へ、あたたかな眼差(まなざ)しと、愛情をかけてくださり、心から感謝しております。 重ねて御礼申し上げます。皆さま、本当にありがとうございました。 感謝の気持ちを込めて。
《生まれ変わっても私のままで…》急逝の中山美穂さん、追い求めた自由な生き方と「等身大の恋」 最近は妹・中山忍と「結婚はもういいかな」と言って支え合っていた
元トップアイドルの突然の訃報に日本中が悲しみに包まれた。中山美穂さん(享年54)が12月6日の正午過ぎ、自宅の浴室で亡くなっているところを所属事務所スタッフに発見された。8日に死因・身元調査法に基づく解剖が行われ、所属事務所は入浴中の不慮の事故だったと発表した。一時代を築いたスターの人生をたどる。【前後編の後編】 「恋に恋してる恋じゃない」 中山さんは1982年、中学1年生のときに東京・原宿でスカウトされて芸能界に入った。幼い頃からキャンディーズやピンク・レディーに憧れ、歌手になることを夢見ていたという。中山さんの宣伝担当を務めた元キングレコード常務取締役の竹中善郎さんが言う。 「当時はアイドル全盛期。大勢の子がオーディションを受けに来ましたが、元気よく『おはようございます!』と言う子が多い中で、彼女は物静かで口数も少なかった。目鼻立ちのハッキリした顔と寡黙な雰囲気がアンバランスだなと思ったのを覚えています。 当時は事務所もまだ小さかったけど、レッスンを真面目に受けて、デビューに向けて一生懸命やっていました。言葉にこそしないものの『私は負けない』という気持ちがこちらにも伝わってきたほどです。過労で倒れたこともありましたが、芯が強く、決して弱音を吐くことはありませんでした」 生い立ちは複雑で、実の父親の記憶はほとんどない。親戚や祖母の家をたらい回しにされ、引っ越しや転校を繰り返した。中山さんは一時期、離れて暮らしていた母親への思いを著書『なぜなら やさしいまちが あったから』で次のように振り返っている。 《私は母に対する幼少期の記憶があまりない。母なりに一生懸命生きていくために私はあらゆる家に預けられていた。ほんの数枚のモノクロ写真に写る、母に抱かれた自分を見ては、そこに自分なりの物語を思い浮かべていた》 もっとも、14才で芸能界に入ってからは忙しい日々が続き、境遇を悩む時間はなかった。 「ブレークのきっかけは1985年に出演したドラマ『毎度おさわがせします』(TBS系)でした。髪を脱色し、自分を“オレ”と呼ぶ不良少女役が話題を呼び、オンエアの翌日からファンに追い回される怒濤の日々が始まったのです」(芸能リポーター) 同年、シングル『「C」』で歌手デビュー。当時は「おニャン子クラブ」を中心に大人数のアイドルグループがもてはやされていたが、“ミポリン”の愛称で親しまれた中山さんはソロでも存在感を発揮し、浅香唯、工藤静香、南野陽子と並び「アイドル四天王」と呼ばれた。 子供の頃からの夢は叶ったが、多感な時期に事務所から恋愛を禁止されたことに中山さんは反発した。1988年に、旧ジャニーズ事務所のトップアイドルだった田原俊彦(63才)との“半同棲”をスクープされ、「(田原は)白馬に乗った王子様。仕事をやめたら、きちんと家庭に入るのが合っていると思う」と結婚願望を打ち明けている。 「1991年には事務所に無断で2人でハワイ旅行に出かけたことも大きな話題になりました。当時は20才になったら芸能界を引退することも考えていたそうで、恋をしていることを隠そうともしない。その後も大胆な行動を繰り返していました」(前出・芸能リポーター) 田原とはハワイ旅行の後に破局したが、同年、自身のヒット曲『Rosa』を手がけた作曲家との“熱愛”が発覚。そのときも、中山さんはマイペースを貫いた。 「交際をとがめるマネジャーと激しい口論になることもあったそうですが、『恋に恋してる恋じゃなく、等身大で恋をしている』と大胆発言。その後もサッカーの元日本代表の中田英寿さん(47才)との深夜デートが目撃されたり、有名スタイリストと結婚秒読みと報じられるなど、多くの恋愛を経験してきました」(前出・芸能リポーター) 女優としても高く評価されていた中山さんは、1989年に『君の瞳に恋してる!』(フジテレビ系)に主演して以降、“月9ドラマ”の常連となり、本格的な女優に転向してからは、いっそう自由な生き方を追い求めるようになった。 「息子くんに寄り添っていた」 私生活で転機が訪れたのは2002年。雑誌の企画で知り合った作家の辻仁成氏(65才)との対話を中山さんは「孤独な魂同士の握手」と表現し、出会った瞬間、恋に落ちたという。 「交際8か月のスピード婚でした。婚姻届を出すときは、母親以外の誰にも告げなかったそうです。芸能界における“ルール違反”とされたため、映画の撮影が中断されたり、CMの契約がストップしたりと仕事に多くの影響が出ましたが、中山さんはひるむことなく、自分の愛を貫こうとしました」(前出・芸能リポーター) 日本の喧噪から逃げるようにして辻氏とフランスに移住した中山さんは2004年にパリで長男を出産。5年近く芸能活動を休止して収入が途絶えると、デビュー以来、自分の資産を管理していた母親と決別。蓄えを取り崩して親子3人の絆を守ろうとした。しかし、幸せな生活は長くは続かなかった。 「2014年に辻さんと離婚した原因はさまざまあるようですが、そのひとつが辻さんの風貌の変化でした。短髪だったヘアスタイルをストレートのロングヘアにして、奇抜なファッションに身を包む彼の姿勢を中山さんは快く思っていなかった。彼女の方から離婚を切り出し、話し合いを重ねた末に辻さんから突き付けられた条件が親権を手放すことだったのです」(別の芸能関係者) 両親の離婚を知った長男は、父親と暮らすことを希望したものの、母親が恋しくて、ぬいぐるみを涙でグショグショにしたこともあったという。日本に戻った中山さんは芸能活動を再開し、再び第一線に返り咲いた。「家族を捨てた」と批判されたが、わが子を思わない日はなかったという。 「息子さんには『いつも愛していることは伝えているし、できるだけそばにいることも伝えています』と語っていました。しかし、辻さんの許可がない限り、お子さんと会うことはできなかったそうで、寂しさを周囲に打ち明けたこともあります。この頃から酒量も増えていったように思います」(前出・別の芸能関係者) 訃報から2日後、辻氏はブログに心境を綴った。 《某月某日、不意の悲しい知らせがあり、昨日は日記をお休みして、一日、祈っていたのである。そして、息子のことが心配なので、昨日はずっと息子君に寄り添っていたのだ(中略)。息子も頑張っているので、そっとそっと、見守ってやって頂けると、まじで、父ちゃんは嬉しいのである》 辻氏との離婚後、中山さんはパリで親しくなった音楽家の渋谷慶一郎氏と同棲したが、けんかが絶えずに破局している。行き場を失った彼女に手を差し伸べた事務所関係者が用意したマンションが、現在の自宅だった。 最後の恋がスクープされたのは2024年元日。ツアーに帯同していたバンドメンバーで、9才年下のベーシスト・永田雄樹氏(45才)との交際が報じられ幸せを取り戻した矢先に事故は起きた。 「永田さんとは“互いを尊重した大人の関係”で、中山さんは本当に居心地がよさそうでした。妹の忍さんも独身でしたが、晩年は2人して“結婚はもういいかな”と言い合って、姉妹で支え合っている感じが強かった。誰もがうらやむほど姉妹仲がよくて、このままずっと2人とも楽しく仕事を続けていくんだろうと思っていたのに……」(前出・別の芸能関係者) 2023年8月に出演した番組で「生まれ変わったら、もう1回芸能界に入りますか」と質問された中山さんは、「入ります。私のままで」と即答。「60才になったとき、カッコいいおばあちゃんでいたい。60はまだ若いか。ずっとずっと続けていたい」と話していた。人一倍寂しがり屋で「サヨナラ」という言葉を何よりも嫌っていた中山さんは、誰にも何も言わず、ひとりで静かに旅立った。