中山美穂さんの悲劇で注目の「ヒートショック」対策 断熱ジャーナリストは「3LDKマンションなら20万円台で可能」補助金でほぼ半額に
12月6日に日本を駆け巡った突然の悲しい知らせ。女優で歌手の中山美穂さんが54歳で急逝したのである。事務所の発表によれば、死因は「入浴中に起きた不慮の事故」だという。“事故”の詳しい内容は明らかになっていないが、SNSでは「ヒートショック」が関係しているのでは、という投稿も相次いだ。 12月6日の東京の最低気温は5.2℃ ヒートショックとは、急激な血圧の変動が引き起こす体の不調のことで、重篤なケースでは失神や心筋梗塞、脳梗塞により、命にかかわることもある。 特に風呂場で起きやすいと言われているが、その理由は“温度差”にある。冬の日本では暖房の効いたリビングと、無暖房の脱衣所やトイレとの温度差が全国平均で15℃もあるというのだ。暖かいリビングから寒い脱衣所に移動し、さらに服を脱ぐことで血圧が急上昇。そして今度は熱い湯船に浸かった途端、血圧が一気に下がるというメカニズムだ。 暖かいリビングから寒い脱衣所に移動し、服を脱ぐと血圧が急上昇 この急激な血圧の上昇・下降の繰り返しが、脳や心臓、血管にダメージを与えることで、失神や心筋梗塞、脳梗塞を引き起こしてしまうのである。また、水の張られた浴槽内で意識を失った場合には、溺死の危険性もある。ヒートショックは死に直結する非常に恐ろしい現象なのだ。 中山さんの訃報が報じられた12月6日の東京の最低気温は5.2℃で、前日の8.9℃から一気に下がっていた。先週末から急激に冷え込んだ関東地方では、風呂場で寒い思いをした人も多かったのだろう。中山さんの訃報を聞き、「ヒートショック」を連想した人が多くいたことも頷ける。 ところで、ヒートショックを引き起こす住宅内の“温度差”は、日本の住宅性能に起因する「特有の問題」であることはご存じだろうか。 日本の住宅は国際的な基準では無断熱に近い 日本の住宅性能に詳しいノンフィクションライターで、『「断熱」が日本を救う』(集英社新書)の著作のある高橋真樹氏は、“断熱ジャーナリスト”としても活動している。高橋氏は、 「中山さんの死因と直接の関係があるかは分かりませんが」 と断った上で、このように指摘する。 「消費者庁の統計によると、住宅のお風呂で溺死する65歳以上の高齢者は、年間に約5000人いるとされます。また別の推計では、入浴中に倒れて他の疾病で亡くなる方は、年間に約1万7000人にのぼるとも言われます。全国の交通事故の死亡者数は2022年で2610人。この推計値で比較すると、6倍以上になります。そして、その大きな要因となっているのが、日本の住宅の断熱性能の低さなのです」(高橋氏) というのも2022年4月まで、日本の断熱性能は1~4の4段階評価で、「開口部に複層ガラスを用いる」と規定される「4」が最高等級と位置付けられてきたが、 「実は2023年の時点で、既存住宅5000万戸のうち、最高等級4の基準を満たしている住居はわずかに13%しかありません。しかも、その等級4の基準自体、国際的に見ると極めて低い断熱性能なのです」(同) 国も問題意識は持っており、この「断熱性能基準」は、2022年に5~7が新設され、全7段階となった。さらに2025年4月からは新たに建築される住戸すべてが等級4の条件を満たすことが義務付けられることになった。 「大きな前進ではあるものの、対象はあくまで4月以降に建てられる新築ですから、既存住宅の断熱性能とは関係がありません」(同) アルミサッシの窓は“最悪” WHO(世界保健機関)は、「住宅と健康ガイドライン」の中で、寒さから健康を守るための最低室温の基準を18℃と設定している。基準の参考元となったイギリス保健省の調査では、室温が18℃未満では血圧上昇や循環器系疾患に影響し、16℃未満では呼吸器系疾患に繋がるとの結果も報告されているという。 「日本の最低室温については、断熱改修を予定している住宅の約9割で室温が18℃を下回っているという測定結果もあります。日本では多くの家がWHOの基準を満たしておらず、国際レベルでは“違法建築”とも呼べる状況となっているのです」(高橋氏) なぜ日本の住宅はこれほどまでに“寒い”のか。 「断熱材が敷設されているかどうかなど、色々な要因があるのですが、1番分かりやすいのが“窓”です。住宅が外気温の影響を受ける割合は、戸建てで約5割、マンションでも3~4割は窓による影響と考えていいでしょう」(同) 戸建ての方が影響が大きいのは、窓が大きく、数も多くなりがちだからだ。また、日本の住宅で特に窓が問題とされるのは、その材質と構造に理由がある。 「住宅の中でもっとも熱が出入りする、窓やドアなどの開口部からは、夏は74%の熱が侵入し、冬は50%の熱が出て行ってしまいます。日本の窓で問題なのは、いまだに多くの住宅でアルミサッシが採用されていること。欧米で使われる樹脂製や木製の窓枠と比較し、アルミサッシの熱伝導率は1200倍にもなります。実は、冬に気温が下がる先進国でアルミサッシが重用されているのは日本だけなのです」(同) ちなみに、中山美穂さんの住居は70平米ほどのマンションだったと言われているが、リノベーションで壁をなくした「吹き抜け構造」だったとも報じられている。 「吹き抜け構造の住居の場合、特に暖房効率が悪くなりますので、断熱性能が高くないと、部屋全体が寒くなりやすいということは言えると思います」(同) 意外とお手頃な「内窓追加」 日本の住宅の断熱性能については、こんな興味深いデータもある。…
中山美穂さんのデビュー40周年全国ツアー中止を発表 チケットは払い戻し対応
突然の別れに、ただただ泣きたくなった――。 列島が激震したのは12月6日夕刻。俳優で歌手の中山美穂さんが、都内の自宅で亡くなったとの一報が駆け巡ったのだ。デビュー40周年を来年に控えた、54歳という若すぎる死だった。 「中山さんは自宅マンションの浴槽で着なしのまま前かがみになり、顔が水につかっている状態で発見されました。彼女の所属事務所によって、死因は入浴中の不慮の事故だったと発表されました」(全国紙社会部記者) 中山さんの自宅付近に住む70代の女性はFRIDAYにこう話した。 「お昼の12時を過ぎていたと思うのですが、消防車と救急車がサイレンを鳴らしてやってきて、それから5分ぐらいでストレッチャーで誰かが運び出されて……自宅は一見、ありふれた古めのオフィスビルなので、まさか中山美穂さんが住んでいるとは知りませんでした」 近隣に住む別の女性は、生前の中山さんの姿を目撃していたという。 「近所に『ライフ』と『明治屋』があるんですが、中山さんは庶民的な『ライフ』のほうで買い物をしていました。キャップを被っていましたが、特に変装する様子はなく、テレビで見る美しい姿のままでレジに並んでいたのが印象的でした」 姉のもとに駆けつけた実妹の中山忍(51)は、FRIDAY記者を含む報道陣に向け、涙を滲(にじ)ませながら頭を下げた。 「突然のことで、今お話しできることが何もありませんので……。改めてお話しさせていただくことがあると思いますので。遅くまで申し訳ございません……」 喪主は彼女が務めるという。スーパースターの早すぎる死は、世界中に報道された――。 ◆″育ての親″たちの思い 中山さんは’85年、『毎度おさわがせします』(TBS系)で俳優デビュー。同年に『C』で歌手デビューを果たすと、その年の『日本レコード大賞』の最優秀新人賞を受賞した。その後も、’92年の『世界中の誰よりきっと』と’94年の『ただ泣きたくなるの』がいずれもミリオンヒットを記録するなど、アーティストとしても才能を発揮。亡くなった当日も大阪でクリスマスコンサートを行う予定だった。レコード会社関係者が明かす。 「来年がデビュー40周年イヤーで、節目の年に向けて大規模なライブや撮影の仕事が色々と決まっていたんです。中山さんはやる気に溢(あふ)れていて、打ち合わせにも積極的に参加していた。体調が優れないといった話はまったく耳にしていなかっただけに、訃報に接して皆、呆然としています……」 中山さんの才能を見出し、初代担当音楽ディレクターを務めた元キングレコードの福住朗氏(75)もその一人だ。 「(中山さんの死は)テレビのニュースで知りました。『嘘だろ』と耳を疑いましたね。すぐキングレコードの同期に電話をして、『まいったね』と途方に暮れました。 彼女とは、デビュー前に知人を通して初めて会いました。無口だったけど、歌っている時の口の形がとてもきれいで、声も素晴らしかった。『すごく才能を感じさせるから、絶対デビューさせよう』と必死に上司を説得したのを覚えています。最後に会ったのは今年4月。広島県三原市で行われたコンサートを観に行ったんです。元気いっぱいで、アイドル黄金期の’80年代を走り抜けた時の姿そのままだった。終演後、楽屋へ挨拶に行くと、ドラマの出演や新曲の発表など、″まだまだやりたいことがたくさんある″と目を輝かせて話していました。最近は、私と会うたびに『体調は大丈夫?』と声をかけてくれていてね……。 私が逝って中山が葬儀で涙を流すシーンがあったら嬉しかったんだけど……順番が逆だよね」 デビュー当時から宣伝担当を務めた元キングレコード常務取締役の竹中善郎氏(69)は、「一般的なアイドルとは違うタイプだった」と明かす。 「普通のアイドルは挨拶から元気いっぱいだけど、美穂は静かで大人しい印象だった。ただ、他の子とは違う圧倒的な″何か″を感じたんだよね。CDデビューした時は映画『ビー・バップ・ハイスクール』や連ドラの撮影が重なっていて相当に忙しかったはずだけど、美穂は一切弱音を吐かなかった。芸能界で仕事をするにあたって、相当な覚悟を決めていたんだと思います」 トップアーティストとしての地位を確立したメガヒット曲『世界中の誰よりきっと』でコラボした『WANDS』の初代ボーカル上杉昇氏(52)は、「スターという言葉が似合う人でした」と往時を振り返った。 「中山さんは僕が学生の時から大人気のスターだった。『世界中の~』は″憧れの人″と仕事をした感じでした。彼女とはいろいろなところで歌わせてもらいましたが、どんな時でも皆さんが思う『中山美穂』そのままでした。彼女の後ろ姿からも、それは感じていましたね。 僕は当時あがり症で、取材を受けてもインタビュアーの質問にうまく答えられるかどうか自信がなかった。それで『美穂さん、助けてください』とお願いをしたことがあったんです。すると美穂さんは、僕に代わって全部答えてくれた。頼もしかったですね。 訃報に接したときは、しばらく理解が追い付かなかった。″どういうことなんだろう″ってしばらく呆然としていました。美穂さんが亡くなったことが、徐々にわかってきたという感じです。彼女は10代からずっと表現者として第一線を走ってきた。今はゆっくり休んでほしいと思っています。何より、『一緒に歌ってくださってありがとうございました』と言いたいですね……」 デビューから40年間、眩(まばゆ)いばかりの光を放ってきた永遠のスーパーアイドル。日本中がいまだにその死を受け止められないでいる。 『FRIDAY』2024年12月27日号より
中山美穂さん急逝から1週間、「人生の中にはたくさんのサヨナラがあって…」芸能活動再開の取材思い出し涙
◇コラム「芸能リポーター・山﨑寛代のぶっちゃけトーク」 12月6日に急逝した中山美穂さんは80年代のトップアイドルで俳優としても活躍したほか、プライベートでは2002年に小説家の辻仁成さんと電撃結婚。当時、辻さんが初対面で「やっと会えたね」と運命的な出会いであったことは有名な話です。その後、中山さんはパリへ移住し、芸能活動を休止しました。 私が中山さんの取材で印象に残っているのは、2010年に公開された映画『サヨナライツカ』で12年ぶりに芸能活動を再開された時。公開にあわせて単独インタビューをしたのですが、この時の中山さんの圧倒的な美しさ、部屋に入って来た瞬間に芸能活動を長く休んでいたとは思えない、引き込まれるオーラを感じたのをよく覚えています。インタビュー中は私の目をしっかり見て、言葉を選びながら話してくれる誠実さ。子育てのこともフランクに語ってくれました。雰囲気が柔らかくなって、母親としての魅力が加わった感じ。女性としての魅力が増したように感じました。 『サヨナライツカ』は辻さんのベストセラーが原作。タイトルが持つ意味を尋ねると、「人生の中にはたくさんのサヨナラがあって。でも、その同じ数だけの出会いがあって、その繰り返しの中に永遠がある」という話をされていました。決して悲しみではないという意味だったんだと思います。亡くなって1週間が過ぎましたが、今、その言葉が思い出されて、涙が出てしまいます。 インタビューの最後に「好きなフランス語は何ですか?」と尋ねると、中山さんは「セラヴィ」とおっしゃいました。「それが人生」という意味なんですよね。あんなに輝いていた芸能活動を辞めて、愛にいちずに走ってフランスに行かれて。中山さんは自分の気持ちに正直に生き、後悔はしない生き方をしてきた人なんだと思いました。そして「セラヴィ」と言葉にした中山さんの凛(りん)とした表情、中山さんの人生を感じました。 デビュー30周年の節目に本格的な舞台に初挑戦した中山さん。東京・下北沢の本多劇場で上演された4人芝居『魔術』。当時、中山さんを取材すると、「ずっとこういう舞台がやりたかった。まだ新しいことに挑戦できることはすごく楽しい」と話しておられました。トップアイドルだった中山さんが年齢を重ねて、新しいことに挑戦していく姿を素晴らしいと感じたのを覚えています。 あまりにも突然の訃報で、悲しみはまだ癒えませんが、”中山美穂”は芸能界で唯一無二の存在感を示してきた女性でした。サヨナライツカ。永遠であり続けます。 ▼山﨑寛代(やまざき・ひろよ) FM群馬での勤務を経て、TBS系「3時に会いましょう」「スーパーワイド」、テレビ朝日系「スーパーモーニング」などワイドショー・情報番組でリポーターを務める。朝日放送系「おはようコールABC」出演を機に芸能リポーターとして、現在はテレビ朝日系「羽鳥慎一のモーニングショー」、福岡放送「めんたいワイド」に出演中。旧ジャニーズ事務所や歌舞伎などを中心に取材している。