中山美穂さんと離婚した元夫・辻仁成氏「家庭に女優を持ち込むな」パリ夫婦生活での違和感と、美穂さんが描いた“老後”

《不意の悲しい知らせがあり、昨日は日記をお休みして、一日、祈っていたのである。そして息子のことが心配なので、昨日はずっと息子君に寄り添っていたのだ》 中山美穂さんの急逝が発表された12月6日、自身の公式ブログで心境を綴った作家でミュージシャンの辻仁成氏。 8日にもWebマガジン『DesignStories』を更新し、これまで365日休まなかった日記を書けなかったこと、あらためて元妻に“祈り”を捧げていたこと、そして2025年1月で20歳になる長男の様子を明かしたのだ。 2002年に辻氏と結婚した中山さんは、翌年にフランス・パリに移住して芸能活動を一時休止。2004年に長男を授かると育児に専念するも、2年後には仕事復帰してパリと東京を往復する生活を始める。 そんなすれ違い生活の影響もあってか、2014年7月に離婚が成立すると『美ST』(2014年10月号、光文社)にて、その理由を《好きな人に出会った》と告白。一部で不倫も報じられた音楽家との交際もオープンにするのだった。 「すっかり“恋愛体質”“自由奔放”など負のイメージが付きまとい、辻さんに親権を譲ったことでさらなる批判に晒された美穂ちゃん。でも1985年のデビュー以降、ずっと芸能界の一線で活躍してきた彼女だけに、突如として家庭を守る生活、それも異国の地での生活にストレスを感じた面はあったと思います」 ちゃんと演技のできる役者だったんだな 中山さんを見守ってきたというベテラン芸能リポーターが擁護するように、彼女にも言い分があったのかもしれない。辻氏とのパリでの夫婦生活はどんなものだったのか、2010年当時、中山さんが連載を持っていた『LEE』(6月号、集英社)で夫婦揃ってのインタビューに応じていた。 中でも気になったのが、夫による妻への“評価”ともとれる発言ーー。 《この人は、息子のお母さんであるだけじゃなく、ちゃんと演技のできる役者だったんだなって。》 《結婚した時、しばらくは家庭の中に女優の中山美穂を持ち込むのはよくないだろうと思っていたんです。》 中山さんの代表作、映画『Love Letter』や『東京日和』を観ていないという辻氏。結婚当初は女優・中山美穂として接することに抵抗があり、数年経ってようやく妻の、長男の母親の演技を観て感動したようだ。 さらには、こんな夫婦のやりとりも“暴露”する辻氏。 《しばらく家を空けて戻ると、この人、犬が待っているみたいに、すごい喜んで迎えてくれるんです。キャインキャインって。ああ、家に帰ってきたんだなあって、僕もうれしい。ふだんは、話しかけても返事もしてくれないから(笑)。》 妻に向かって《超親友だよね。》 彼の“リップサービス”なのだろうか、“飼い犬”に例えられた中山さんからは《そんなことはないです。》とひと言、冷静に否定されてしまった。 「もちろん対談を読み進めると、美穂さんのことを大切に思っている気持ちはわかるんですけども、作家だけに表現の仕方や観点、言葉選びが独特といいますか(笑)。妻に向かって《超親友だよね。》と言い切るのも、女性として見ていなかったのかな。 また、この頃の辻さんはさらさらロングヘアで中性的な外見で、一方でエレガントなファッションの美穂さんと並んでも違和感を覚える夫婦に映りました。性格も好みもバラバラと話していましたが、夫婦としての価値観はすでにズレていたのかも」 そんな“あべこべ夫婦”ぶりが伺える対談ではあるが、中山さんは辻氏との未来を描いていた。当時、パリや東京も含めて“妻が持ち家を持とうとしない”ことを明かされると、中山さんはその理由について、 《老後は沖縄に古い家でも買って、ふたりで過ごせればいいかなと。》 離婚後も長男の母親として、また“親友”として中山さんと接していたであろう辻氏。日記を書けなかった“空白の1日”に、どんな祈りを捧げたのだろうか。  

「どう思われてもいいや」辻仁成との離婚裏にも波乱万丈、中山美穂さんが追い求めた“自由な生き方”

あまりにも突然で、あまりにも早すぎる……。12月6日、中山美穂さんが亡くなったと報じられた。 「この日は大阪でライブが予定されていたんですが連絡がとれず、スタッフが自宅を訪れたところ浴室で倒れていた中山さんを発見したそうです。警察官が駆けつけ、死亡が確認されました」(スポーツ紙記者、以下同) 54歳という若さでの急逝。1980年代にトップアイドルとして輝き、波乱の人生を駆け抜けてきた。 「1985年にTBS系列で放送されたドラマ『毎度おさわがせします』で女優デビュー。中学3年生でした。思春期の男女が繰り広げる恋と性の騒動を描くコメディータッチのドラマでしたね。中山さんはツッパリ娘の森のどかを演じて大人気に。同じ年に『夏・体験物語』で主演を務めるとともに主題歌『C』を歌い、歌手としても活動を始めます。日本レコード大賞で最優秀新人賞を獲得しました」 長野県の小さな町に生まれ、3歳の時に親が離婚、母と妹・忍とともに上京。親戚などの家に預けられ、幼少時には苦労も多かった。 アイドル業に抱えていた違和感 「原宿でスカウトされると、“母を幸せにしたい”との思いから芸能界入りを決めました。歌はヒットしドラマでは主演を務め、アイドルとして大成功。でも、本人は違和感を抱えていたようですね。“地味でいいから手応えのあるものをやりたい”と思っていたそうですから」 転機となったのは、1995年の映画『Love Letter』だった。 「岩井俊二監督の初長編映画で、中山さんは他人ながら風貌がそっくりな二人の女性を一人二役で演じました。演技が高く評価され、ブルーリボン主演女優賞を受賞。それまでのアイドル的な役柄から脱皮し、アート系の映画に挑戦するようになります」(映画誌ライター) プライベートでは、2002年に大きな出来事があった。辻仁成氏との結婚である。 「辻氏は芥川賞作家でミュージシャン。映画監督でもあります。結婚後にパリに移住したのは、生まれてくる子どもにのびのびと育ってほしいとの思いからでした。2004年に長男を授かり、パリで子育てに専念します。しかし、2014年に離婚。親権は辻氏が持つことになりました」(前出・スポーツ紙記者、以下同) 親権を譲ったことで、中山さんは激しいバッシングにさらされることになった。 「“子どもを捨てて恋に走った”と批判されたんです。でも、中山さんにとっても苦渋の決断でした。フランスの法律では離婚すると親権は半分ずつになりますが、日本ではどちらか一方が持つことになっています。最終的に辻さんに譲ることに決めたそうです」 離婚は音楽家との交際が原因か 中山さんは2014年に雑誌『美ST』(10月号)のエッセイで、離婚の経緯と息子への思いを綴っていた。 《いちばんに願うのは息子の幸せです。寂しい思いをさせてしまったことは、毎日胸が痛みます。これから思春期に入っていく彼の微妙な変化も何もかも、すべて受け止めて支えてあげられたら》 離婚の原因として報じられていたのが、音楽家・渋谷慶一郎氏との交際だった。 「2014年4月に帰国すると、空港には多くの報道陣が詰めかけました。質問にはノーコメントでしたが、“辻さんとお会いになる予定はあるんですか?”との問いかけには“はい、あります”と返答。その後もカメラマンが追いかけてきたことに怒ってトラブルになったことが印象を悪くしましたが、真相は取材の取り決めに行き違いがあったんです」(テレビ局関係者、以下同) 渋谷氏とは2015年末に破局。そのころから芸能活動を本格的に再開し、『FNS歌謡祭』で2018年ぶりの音楽番組出演を果たした。 「渋谷さんとの関係に変化が生じたのは、2015年11月にパリで起きた同時多発テロ事件がきっかけだったようです。中山さんは日本にいましたが、辻さんが仕事で日本に来ていたため、息子さんは一人でパリに。息子さんを守ってあげられない状況だったことを後悔し、いつでも会えるようにするために渋谷さんとの別れを決断したそうです」 2024年にもミュージシャンと熱愛 息子を日本に呼び寄せることができるように、環境を整えることを優先した。それからは芸能活動に力を入れるようになっていく。 「2016年に東京・下北沢の本多劇場で上演された四人芝居『魔術』で初めて舞台作品に出演。その後も演劇に注力するようになり、昨年末から今年初めにかけて、東京・明治座などで上演された『西遊記』で鉄扇公主を演じました。2018年には日韓合作映画『蝶の眠り』で5年ぶりの映画主演を果たしています」(前出・映画誌ライター) 私生活では、2024年元日に新たな熱愛が報じられた。 「お相手はジャズのベーシストとして活躍している永田雄樹さんです。中山さんは永田さんのバンド『JABBERLOOP』のファンで、共通の友人の紹介で交際がスタートしました。永田さんは中山さんのツアーでバンドマスターを務めており、公私両面で信頼するパートナーになっていました」(前出・スポーツ紙記者) 2020年の週刊女性のインタビューでは、中山さんはポジティブな意気込みと将来像を語っていた。 「どう思われてもいいやって(笑)」…

中山美穂の急逝に和田あき子が涙の告白…最期の会話となってしまったある日の出来事に言葉を失う!!【芸能】

歌手の和田アキ子が8日、MCを務めるTBS系「アッコにおまかせ!」にスタジオ生出演。俳優で歌手の中山美穂さんが急逝した件について「やっぱりショックでしたね、聞いた時は『えぇ~』って久しぶりに」と衝撃を受けたことを明かすとともに、番組で共演したエピソードなどを回想した。 中山美穂さんは6日に死去したことが明らかになった。大阪市内でのコンサートが予定されていたが、移動の待ち合わせ時間に来なかったことを心配した事務所関係者が東京都内の自宅を訪れたところ、浴室で死亡しているのが見つかったとされる。 冒頭、峰竜太が「残念なニュースが入ってきました」と中山さんの訃報を取り上げた。生前の中山さんの活躍に触れたほか、1987年に同番組にゲスト出演し、和田とのトークに臨んだ際のVTRを紹介した。 和田は「やっぱりショックでしたね、聞いた時は『えぇ~』って久しぶりに」と、訃報に触れた心境を吐露。「私の『大阪ヘヴィーレイン』という歌をね、彼女はものすごく好きで、『あの曲を聴くと泣いちゃうんです』と言ってくれてね。なんか私の中では(中森)明菜とか、(松田)聖子ちゃんとかいる中で、ちょっと大人っぽい。顔とか、雰囲気がね。話し方はそのまんま10代なんだけど」と懐かしんだ。 その上で「でも54歳って…人生100年って言われてますからね、まして当日は仕事があった中で。いろいろあれですけど、これもしょうがないですね、これも運というか」と、時折言葉を詰まらせながら話した。